壮絶な過去【コウって誰?】これまでの道のりとこれからの目標~僕が情報発信するわけ~

ko

はじめまして、コウです。

プロフィールをご覧いただき
ありがとうございます。


この出会いが
今後のお互いの人生にとって
いい出会いになれば嬉しいです。

そんな願いを込めて
書いていきますので
ぜひ最後まで読んでいってください


コウって誰??

ってなりますので、
簡単に自己紹介させてください!


僕は、不動産投資を経たのちに
「コンテンツビジネス」に出会い
人生のできるだけ早い時期の「今」


会社員をしながら
「自動化の仕組み」を構築するために
全力を注いでいる二児の父親です。


実績はと言いますと、
年収3億です!!・・・とか、
そんなものは一切ありません。


これまで10を超える副業に挑戦しては
失敗を重ねてきました。


不動産投資では物件を5件所有し、
成功への道は見えていますが、
20年くらい先になります。



成功までの糸口がハッキリ見えているから
あとは「行動するだけ」の状態です。

ここで、

僕が考える理想の人生を
箇条書きで書いていきます。

・お金のことで悩まない
・趣味や娯楽に全力で取り組む
・旅行先の選択も、旅行先での選択にも“お金”を気にしない
・レストランで好きなものを注文する
・会社に縛られない、依存しない
・子供の教育に“お金”による制限をかけたくない
・会社のつまらない上下関係から解放されたい
・通勤に時間をかけたくない
・“お金”のために自分の人生を無駄にしたくない
・無人島で3か月間くらいのサバイバル生活をしたい
・海外で暮らしてみたい
・時間にも、お金にも、縛られたくない
・生きているだけで自動でお金が入ってくるようになりたい
・漫画や映画、ドラマを自由に鑑賞したい
・同じ目標を持っている仲間と繋がりたい


と、まだまだたくさんありますが、

僕の理想は、
お金にも時間にも縛られることなく
大切な家族“と”大切な仲間“とともに
人生を過ごすことです。

そして、この理想の全ては、
実現が可能なのです。

SFの父ともよばれる
「ジェール・ガブリエル・ジェンヌ」は

人間が想像できることは
   人間が必ず実現できる

という言葉を残しました。

世界にイノベーションを起こすとか
スケールが大きな話ではありません。


僕程度の人間が想像できることなんて
この世で実現が不可能と
いわれているような事柄と比べたら、

実現させる正しい方法さえ知ってしまえば
簡単に実現できるということです。

実は、ここに挙げた僕の理想の未来の全てを
手に入れる方法が、すでに確立された方法
として存在するのです。

それがコンテンツビジネスなんです。


努力次第で月に100万円以上稼ぐことが可能で
中には月収1000万円を超える方もいます。

月収100万超えはザラ!?コンテンツビジネスって怪しくない?



稼げる金額だけ聞くと、
「何かヤバいことしているんじゃ・・・」
とか「嘘だ」とかかなり怪しいですよね。


僕も、最初は同じように
怪しんだうちの1人でした。

僕が行っているコンテンツビジネスは
物販やMLM、株の信用取引とかの
他人が作ったものを利用するのではなくて、

自分の経験と知識を商品にして販売する

というものです。

コンテンツビジネスは、

パソコン1台ネット環境
さえあればコスト0で、
どこにいても稼げる

仮に失敗しても
在庫を抱えるリスクがないから
被害が最小限

さらに

販売するのが
自分の知識や経験だから、
利益率100%です。

だから、転売やMLMとかと比べても
遥かに大きな金額を稼げるのです。

夢しかないビジネスです。

コストもなく、在庫を抱えるリスクもなく、
売り上げのノルマもない。

働く場所にも、働く時間にも縛られない。

サラリーマンにとっても
本当に“夢”のようなビジネスなんです。

でも、どうすればいいの?
こう思いますよね。

僕自身、ここまでたどり着くまでには
株、IPO、信用取引、
せどり、アフィリエイトなど
いろいろなビジネスをやってきて、

なかなか成果を上げられずに
諦めかけていました。

そして、
ネットビジネスの前に
不動産投資に出会い、


正しい師の下で、
 正しい方法で行えば成功できる

ということを学びました。

でもそれは、ネットなんかでよく、
開始1日で5万円とか
開始2週間で10万円とか
公言している人がいます。

このような発言をしている方の
ほとんどは、本質からズレた
一時的に稼げる枝葉のテクニック
の場合がほとんどです。

基礎から学んでもし本当に
これだけのスピードで
枝葉のテクニックを使わずに稼げるのなら


最初から
ある程度の知識と経験、実績があった
ことを隠しているはずです。

僕も、不動産投資の知識と経験を
コンテンツにして販売すれば
確かに数週間で数万円は稼げます。

でも、
その経験を得るために費やした時間は
2年程にもなります。

だから、
本当にゼロから開始した人なら、
最初に知識を得なければなりませんので、

開始1日で5万円とかは、
単発でしか稼げないようなものじゃないと
達成できません。

ありえません。

ゼロからネットビジネスを開始して
安定して収益を上げるとなると
数か月はかかります。
仕事の合間に行うのであれば
半年から1年は、
かかると考えた方がいいです。

それでも、
人生100年時代と言われている
永い人生のうちの

たった半年や1年を
ネットビジネスに費やせば
その後の自分の人生を
理想の人生”に変えることが出来ます。


『正しい師の下で、正しい方法で行えば成功できる』

今の僕があるのは、
間違いなく師匠のおかげです。

本当に師匠と出会えなければ、
今の僕は存在しません。

だからこそ、師匠には
感謝の言葉しかありません。

人が何かの目標を成し遂げるためには
必ず誰かの支えが必要です。

それは、
正しい師の下で、正しい方法で行う
ことが最善策です。

そして、

正しい方法を知った後は、
行動するか
行動しないか
の2択でしかありません。

行動しない」で
今と変わらない未来にするのか

行動して
自分が描いた理想の未来にを手にするのか
全て、その人次第です。

僕は、
行動しないままの人生を歩んだら
と考えた時に「恐怖」しか
感じなかったので
ただひたすらに行動し続けました。

今思い返しても、
「あの時もし行動していなかったら・・・・」
と考えるだけでも恐怖しか感じません。

だからこそ、行動できたし、
今の僕があります。

と、まぁ今の僕に至るまでの
経緯を簡単に言うと

・不動産投資での師匠と出会う

・正しい師のもとで正しい方法で行うことが成功への近道と知る

・ネットビジネスに出会う

って感じです。

僕が情報発信をするわけ

【惨めな過去が理念の動機】情報発信の根底にある想い

↑ ↑ ↑
僕が情報発信をしようと考えた理由です


僕がどんな人生を歩んできたのか
僕の過去の物語を
今からお話していこうと思います。

(その時々の感情も付け加えているので、
かなり砕けた表現をしています。)

◆◆◆◆◆コウの物語◆◆◆◆◆

小学生時代:『この豆小さいね』の一言からいじめにあう

「なんでもそつなくこなす子」

学校の先生からも、
友達からも、
よく、「なんでもできちゃうよね!」

って言われていました。
確かに、
運動会では毎回リレーの選手に選ばれるし

友達の書道教室へ着いて行って
書初めを書けば
書道の先生に
「何歳から書道を?」と言われるし

スポーツ少年団の
サッカーチームに顔を出せば
「君上手いね!
○○っていうチームがあるけどどう?」

ってスカウトされるし

クラブ活動では

バスケ部とサッカー部と水泳部に
掛け持ち所属することになって
日替わりで練習に参加したり。

小学生の頃は、本当に
「やればなんでもできちゃう子」
でした。

だから、
クラスでも中心メンバーでした。

小学校4年生までは・・・・

僕の人生を変えたのは、
たった一つのピーナッツでした。

ある日、K君の家に遊びに行ったときに
ピーナッツをおやつで出してもらいました。

その、頂いたピーナッツが、
親がよく食べていた
“柿の種”に入っているピーナッツよりも
一回り小さいサイズだったのです。

それを見た僕は、
「この豆(柿の種のやつよりも)小さいね!!」と
「こういうのもあるんだね!」ってつもりで言いました。

それに対し、K君も
「そうそう!そうなんだよー!」
と笑いながら言っていましたが、

次の日から、
クラスのみんなの僕に対する態度が
一変しました。

K君をはじめ、誰一人として
一切口をきいてくれなくなったのです。
完全無視です。シカトです。

突然すぎる出来事に
僕は、原因がわからず、
困り果ててしまい、
休み時間に他のクラスへ
逃げるように向かい
その日をやり過ごしました。

しかし、次の日学校へ行ってみると、
隣のクラスの人までもが
一切口をきいてくれなくなっていたのです。
学年全体から無視されました。

何が何だかわからず、
一日を耐え抜きましたが
帰り道にとうとう耐え切れず
泣き出してしまい、
泣きながら学校から帰ったのを
今でも鮮明に覚えています。

そんな、誰からも無視される状態を
見かねた一人の男の子が、
こっそり事実を打ち明けてくれました。

それは、
「みんなK君から、
無視するように言われているよ。
しかも、K君、変な噂まで流しているよ」

というものでした。

そのことを知った僕は、
翌日K君に直接聞きにいきました。
でも、K君は完全無視、
何を言ってもです。

ここから、
僕の暗黒時代が始まるでした・・・・

今までは、
常にクラスの中心メンバーでしたが、
この件があってから、
一気に陰のキャラクターになりました。
というか、強制的にさせられました。

口数は減り、表情も暗くなり、
他人が言うこと全てを
信じられなくなりました。

ひたすら無視され続けると、
本当に精神的にきついです。

その後もK君から原因を聞き出せないまま、
1年が過ぎ学年が変わり
5年生になった頃、

この状況に追い討ちをかけるかの如く、
ある出来事が起こりました。

母が、急性クモ膜下出血で急死したのです。
享年44歳・・・・

これがきっかけで、
僕の人生は
さらに大きな荒波に飲み込まれました・・・

共働きだったので、
収入が半分になってしまったのです。

貧乏生活へ突入しました・・・・

更に、無視するいじめは続き、
僕のことを誰も知らないところで
やり直さない限り
再起不能だと思いました。

当時は、毎日のように
転校したいとか、
自分のことを誰も知らない場所で
やり直したいとか
現状を変える方法を
色々と考えてました。


でも、
いくら考えても現状が変わることなく、
ただただ無視されるのを
耐え抜く日々が続きました・・・

結局、小学校を卒業する時まで、
無視され続けました・・・・

中学生時代:いじめは続き、コンプレックスも発覚。テニスに出会い成功を掴みかけるが、結局受験で失敗する。

僕が通っていた中学校は、
3つの小学校の学区からなる中学校でした。
つまり、
小学校で僕を無視し続けた人たちが
そっくりそのまま
同じ中学校に進学するのです。

「また同じ学校に通わないといけないのかよ!」
と思いながらも
どうすることもできませんでした。

そしてやはり、
中学へ行っても、
小学校の頃、
僕を無視し続けた人たちは、

相変わらず無視を続けました。

しかし、幸いなことに、
クラスの3分の2は
別の学校から来た子たちだったので、
普通に話してくれました。

それが、唯一の救いでした。
でも、小学校4、5、6年で
ほとんど人と話さなかったので

気付けば、
人とコミュにケーションを取ることが
極度に苦手になっていました。


誰と話しても、
何を話していいかわからないし、
変なことを言って
また無視されないかとか、
余計なことばかり考えてしまい、

本当に自分から会話することが
全くできなくなっていました。

普通に
コミュニケーションを取れないことが
完全に僕の
コンプレックス
になっていました。

そんな僕でも、当時好きな人はいたし
みんなと仲良くしたいって気持ちは
ものすごくあったんですが、

どんな会話をして、
どんな反応をすればいいのか
全くわからなくなっていました。

だから、
せっかく同じクラスの子が話しかけてきても
会話が続かないし、
ぶっきらぼうな反応だから、
人が寄り付かない・・・

そりゃぁ人間関係
上手くいくわけないよねっていう
感じの子でした。

この時、普通に
コミュニケーションが
取れていれば
小学校から続いたいじめは、
終わっていたのかもしれませんが、

何せ人と会話することが出来なかったので、
人から無視される前に
自分から遠ざかってしまってました・・・

それでも、唯一運動が得意だったから、
体育の授業だけは
活躍することが出来ました。

競技中に会話をすることのない
競技だけは・・・

そんな、僕の運動神経を見た担任が、
テニス部に入らないか
と持ち掛けてきました。

テニスは相手とネットで遮られているし、
個人でもできる競技だから
「いいかも」と思いました。

どうせ家に帰っても
何もすることないし、
暇だから、
テニスをやってみようと決心しました。

もともと、
球技は得意だったからか
テニスも楽しかったです。

練習すればするほど上達するし、
テニスをしている時だけは、
徐々にコミュニケーションを
取れるようになってきました。

それでも、
普通に会話が出来ていたかと言われると
まだまだ会話できませんでした・・・

毎日テニスのことだけ
考えるようになり
練習を続け、

ついに初めての大会が訪れました。


なんとその大会で、
3位になることが出来て、
先生や先輩も
めちゃくちゃ驚いていました。

何よりも自分が一番驚きました。

それから、
学校生活に少しずつ変化が起きました。

これまでは、
「無口で、話しかけても会話が続かないけど
体育の時だけはちょっと使える奴」
だったのが、

「実はテニスが上手な奴だった」と
いい噂が広まりました。

そして、
学校でも中心的な存在の
野球部のM君や、
サッカー部のE君や、
バスケ部のT君など、
それぞれの種目でも目立っている子たちが

「テニスの大会で3位になったんだって!?やるじゃん!!」
というように、
話しかけてきてくれるようになりました。

当然、そのような目立つ子が
僕のような陰キャラに
ちょこちょこと話しかけてくるので、
その様子がめちゃくちゃ目立ってました。

虎の威を借りるじゃないですけど、
本当に、
目立つような子と話しているだけで、
周りの対応が一気に変わりました。

これまでは話かけても、
会話にならないからと、
誰も一緒にいてくれなかったのに

「とりあえずこっち来いよ!!」
「なんか話したくなったら
   話せばいいじゃん!!」

というように、
クラスみんなの対応が変わりました。

なんと小学校から
無視し続けてきた子たちまでも、
何事もなかったかのように、
態度をコロッと変えました。

その時僕は、
「人は、何か実績を出されると
    対応を変える」
ということを、
身をもって知りました。

それからとういもの、
僕はひたすらテニスに明け暮れました。

でも、
どうしても自分では超えられない
大きな”壁”
立ちはだかるようになってきました。

家計の事情です。
テニスをするための用品一式は
学校のモノを借りて
お金をかけずにできたのですが、

遠征費や大会の参加費などは、
どうすることもできませんでした。

親に散々
「うちはお金がないから」
と言われていたので
とてもじゃないけど
「部活の遠征と大会で
  お金がかかるからください」
なんて、
口が裂けても言えませんでした・・・

だから、
できるだけ遠征には
参加しなかったし
大会に参加するために、
お年玉を貯金していたくらいでした。

それでも、
大会に出場して結果を出せば
自分を認めてくれる人が
大勢いると信じて・・・・

本当に必死に練習を重ねました。

その甲斐があってか、中学では、
市の大会で
3位か4位にずっと入っていました。

そんなこんなで
なんとかテニス部として過ごし
無事に引退を果たした後、

高校受験が訪れました。

中学の3年間、
ほぼテニスしかしてこなかったので、
勉強は全くできませんでした。

中間テストや期末テストでは、
下から5本の指に常に入る成績だったので、
「高校に行けるのかな?」
「中卒で就職するのかな」
とか本気で思ってました・・・

いやいや、
高校受験落ちたら滑り止めとかで
どっかに入ればいいじゃん!
って思われるかもしれませんが、

当時の僕は、親から、
「お金がないから高校へ行きたいなら、
  学費が高い私立は絶対ダメ」
と耳にタコができるほど言われていました。

だから僕は、なんとしてでも
学費が安い”県立高校”に
受からなければならなかったのです。

そして、受験の手段の一つに
「スポーツ推薦」
というものがあることを
学校の先生から教えてもらいました。

僕のテニスの成績は、
市の大会で常に3位か4位だったので、
成績としては充分だというのでした。

これなら県立高校へ入学できるのでは!
と考え、スポーツ推薦で
受験することを決意しました。

絶対に合格したかったので
先生にアドバイスを受け

ここなら絶対に入れるだろうと、

市で下から2番目の
工業高校に志望校を決定しました。

その工業高校では、
「テニスのスポーツ推薦枠も2名分あるから
市大会で優勝か準優勝している人が受けない限り、戦績からして落ちることはまずない」と、

学校の先生も言っていて、
「市大会で優勝と準優勝を争っている子は、
すでに別の学校をスポーツ推薦で受験することになっている」

というので、

「それって受けたら合格じゃん!!」

と、まだ受けてもいないのに
すでに受かった気でいました。

そして、スポーツ推薦の受験日当日
実技試験と面接試験がありました。

実技試験は、これまでの大会の
戦績が反映されるから
あってないようなもので、
しかも、
スポーツ推薦を受験したのは
市の大会でベスト16とか32で
入賞経験もない人だけでした。

唯一、
同じ学校から受験したO君が
同じくらいの戦績だったので、

結果は誰が見ても明白でした。

しかし、実技試験後の
面接試験で事件は起こりました。

終始、面接というより雑談でしたが、

面接官に、

「これまでで楽しかった思い出と、
  辛かった思い出を教えてください」

という質問をされた途端、
一瞬にして世界が変わりました。

この質問に対し、
楽しい思い出も辛かった思い出も、
部活の話をすればいいだけなのに、
「辛かった思い出」
というキーワードから

瞬時に、
「いじめられて無視された記憶」
が鮮明に蘇ってしまい、
走馬灯のように次から次へと
辛かった記憶で、
僕の脳内が埋め尽くされてしまいました。

結果・・・

僕はそのまま黙り込んでしまい、
その後、質問されることなく
面接を終了することになりました・・・

「やってしまった・・・」
試験会場から出た後に、
その言葉だけが脳内を駆け巡りました。

スポーツ推薦は、戦績の他に、
その人の人間性を見るものだから、
戦績がある程度あれば、
難しいことは何一つ聞かれず、
雑談で終わると言われているのに、
その雑談すらできなかった・・・・

学校の先生には、
この事実を伝えることが出来ず、
「難しいことは聞かれずに、
  雑談で終わりました」
とだけ報告しました。

だから、合格発表の日まで、
僕が落ちているとは
夢にも思わなかったみたいで
結果が発表されて、
僕が不合格と知るなり、
高校へ猛抗議の電話をしてくれました。

僕は、
先生に真実を打ち明けることが出来ず
申し訳なさだけが残ると同時に、
一般入試で受験しなければならないことに
落胆しました。

そして、怒涛の受験勉強を行い、
偏差値41の工業高校に
無事合格することができました。

この一般入試は、
滑り止めなしだったので、
もし不合格なら
就職
することになっていました。

高校生時代:インターハイ?お金かかるなら行くな!有名大学からの推薦も勝手に断られる。

高校は、市のはずれにあったため、
僕の小学生時代と、
中学生時代のいじめの事実を知る人は、
2、3人くらいしかいませんでした。

しかも1学年に320人もいる!
僕の過去を知らない!!
「やったー!
 これで人生やり直せるぞぉぉぉ!!」
と、全く新しい環境での
高校生活をスタートできることで
清々しい気持ちでした。

小学と中学とは明らかに違う環境。
精神的に悩む心配は
ほとんどなくなりました。

勉強がしたくなかったので高校では、
とにかくテニスだけやってやる!
としか頭にありませんでした。

テニス部には、
僕が落ちたスポーツ推薦で
合格した2名もしっかりいて、
2名とも僕が
スポーツ推薦で落ちたことを
知っていました。

だからという訳ではありませんが、
勝手に、
「見てろよぉー!絶対にお前らよりもいい成績を残してやるからなぁー!!」

とライバル視していました。

しかし、
1年生の最初の大会で、
まさかの1回戦敗退・・・

中学時代は
常に3位とか4位になっていたので、
1回戦敗退は
味わったことのない屈辱でした。

さらに、
1年生の6月に部活の顧問が変更になる
という事件が起きました。

変更前の顧問は、女性だったこともあり
「自分たちで好きに練習してー!!」
「怪我とかしちゃったら呼んでね!職員室いるからっ!」

って感じでやりやすかったのですが、

変更後の顧問は、男性で、
国体の指導者とか何とかで
細かくあれやれ、これやれだの
指示してきて、
練習中にミスすると、
怒号が飛んでくるような感じでした。

僕は、もともと、
“のびのび練習して上達する”
タイプだったので(と思うので)、
怒号とか飛んでくると、
ビビッて何も手が付かなくなっちゃう
感じだったんです。

だから、顧問が変更になってから、
まともに練習ができませんでした。

あまりにも激変した
練習環境の変化によって、
辞める部員がちらほら出てきました。

退部届を出した人にはなんと、
スポーツ推薦で合格してきた2人まで
ちゃっかりいました。

「はぁ!?!?お前らはスポ選なんだから、
辞めたくても辞めんじゃねーっつーの(# ゚Д゚)」
「てか、部活辞めんなら学校辞めろよッッ!!!!」
って、正直思いましたね(笑)

そして僕も、
怒鳴られながらまでテニスをしたくない
との一心で、
退部届を出しました。

その顧問とは
考え方が根本的に合わなかったんです。

しかし、あまりにも退部者が多かったため、
その顧問もマズイと思ったんでしょうね、

退部届を出した人全員に、
「もう一度やらないか」
と声をかけてました。

僕も、そのうちの1人で、
その時にはっきりと
「練習中に一切口を出さないで頂けるのであれば戻ります」
と言いました。

顧問は、それに対して、
「その条件をのむ変わりに、テニスの考え方は俺に従ってくれ」
と交換条件を出してきました。

僕が即答できず、
考え込んでいると、
顧問は様々な角度から説得してきて、
結局そのまま了承することになりました。

そして、次の日から
再びテニス部として活動しました。

部員は半分くらいになってました。
結局、スポーツ推薦で受かった2人は
戻ることなく退部していきました。

練習中はというと、
顧問の怒号が飛ぶことは一切なくなり、
練習の雰囲気が
めちゃくちゃいい雰囲気になりました。

子どもって、
のびのび育てるのが良いんだなって
感じましたね。
(当時は、お前も子供だろ!!)

顧問はひたすら僕に
テニスの考え方を教え込み、
僕はその考えに従ってひたすら練習する。

そんな毎日の繰り返しで、
自分が上達しているかどうかも
わからないまま
2年生を迎えました。

そして、2年生の最初の市大会で、
何とベスト4になることができました。

1つ上の学年もいる中での大会だったので、
自分の実力が
格段に上がっていることに気が付きました。

その後の県大会で6位までが
インターハイに出場できるのですが、
1年生の最初の大会で
初戦敗退だったこともあり、
その時の僕は、
県で6位なんて夢のまた夢でした。

しかし、いざ大会が始まると、
怒涛の快進撃で、ベスト8
まで進むことが出来ました。

そして、ベスト8同士で
インターハイの切符をかけた勝負を行い、
僕はその戦いで勝利をおさめ、
インターハイへの切符を手に入れました。

インターハイ出場決定です。

まさか自分が、
2年生でインターハイに出場できるとは
夢にも思っていませんでした。

でも、この結果を親に伝えた時の返事が、
衝撃すぎて度肝を抜かれました・・・

親に、
「インターハイに出場することになったよ!」

と伝えたら、

「インターハイ?何それ、金かかんの?お金かかるなら辞退しろ」

と言われました。

えっ!?・・・

あまりにも衝撃すぎて
何も言い返せませんでした。

インターハイ出場を夢見る高校生が
五万といる中で、
その出場権を獲得した
高校生に対する発言か!!と

怒りすら感じました・・・
でも、確かに、お金ないし・・・
大会の参加費だってお年玉の貯金だし・・・

辞退するしかないのか・・・
と落ち込みました。

翌日、顧問に相談すると、
「俺に任せろ」とだけ言い残し、
その場を立ち去っていきました。

そして、1週間後、
インターハイ出場選手のための
寄付金を集めるとうい発表が
学校から出されました。

顧問が全力で校長に掛け合い、
OBを含めた学校関係者全員を対象として
インターハイ出場のための
寄付金を集めてくれたのです。

こうして無事
インターハイに出場することが出来ました。

結果は散々でしたけど・・・

さらにその1年後、
3年生でもインターハイ出場を果たし、

選抜の全国大会で
全国ベスト8になりました。

この成績がきっかけで、
学校での知名度が上がり、
いろんな人に
声をかけてもらえるようになりました。

コミュニケーションをとるのが
苦手でしたが、
以前に比べて自分に
自身が持てるようになっていました。

また、全国ベスト8になったんだから、
大学から推薦が来ないわけない!!
とスポーツ推薦で大学に入学する考えも
密かに抱いていました。

しかし、待っても待っても推薦の話を
顧問からされることがなく、
ついにしびれを切らして、
顧問に聞きました。

「大学から推薦とか来ないんですかねぇー」って感じで・・・

すると、

「推薦?来たけど全部断っといたよ!だってお前、就職希望って言ってたじゃん!!がははははぁ!!」

「え!?!?!」
「全部断った?!?」
「え!?きてたの!?!?」

「嘘でしょーー!!!!!??」

って感じでした。

いやいやいや!勝手に断るか普通!
将来かかってんだぞ!?!?

怒りを押し殺しながら、
「いつ、どこの大学からきてたんですか?」
と聞くと、

「インターハイの最終日だよ!5、6校から来てたな!あっ!そうそう、青学からも来てたよ、それから日体とか、早稲田は来てなかったな!でも全部その場で断っといたよ」

「まぁお前、就職希望だし、スポーツ推薦でも多少はお金かかるからなぁー」

その時の僕は、奨学金制度の存在も、
大学についても何も知らなかったので、
顧問の発言を
ただ呆然と聞いてるだけでした。

後になって、
奨学金制度とかいろいろあることを知り、
学校の先生なら教えてくれよ、マジで・・・
と今でも後悔しています。

んあぁぁぁ!!!
俺のキャンパスライフを返せー!!

この時に僕にもっと
コミュニケーション能力が備わっていたら、
顧問にしっかりと、
「大学へ行ける可能性が少しでもあるのなら行きたい」
と伝えられていたはずです。

コミュ障になっていなければ・・・・

今と違った人生を歩んでいたはず・・・・

そうして、僕は就職活動に励むのでした。

でも全国ベスト8という経歴だけで、
就職活動は一瞬で終わりました。

社会人1回目:ハラスメントのオンパレード。精神的に強くなるが・・・・

僕は、1回目の就職先で
2年間を過ごしました。

全国に転勤のある会社だったのですが、

新人研修がえげつないほどの
ハラスメントのオンパレードでした。

今でこそ、パワハラの定義は、

①優位的な関係に基づいて行われること
②業務の適正な範囲を超えて行われること
③身体的若しくは精神的な苦痛を加えること、又は就業環境を害すること

と定義付けられていますが、
当時はそんなものなどなく、
やりたい放題の状態でした。

いくつかあげると、

研修中に声を出しまくって
喉がカラカラになって、
水が飲みたいと言えば

わざと水を地面にこぼして水たまりを作り、
水が飲みたいならこの水を飲め!!」とか

それを拒否すれば、
上司の命令を聞けないのか?新人の分際で!」とか

AEDもあるし、
俺は心肺蘇生法の講習も受けてるから
いつ死んでも、何回死んでも、復活させてやる」とか

17時まで研修センターの会議室で待機
と言われたから待っていたのに
17時になぜ集会室にいないんだ!17時に集会室に集まるのがこの会社の決まりだろ!社会人にもなって時間もルールも守れないのか」とか

社内の清掃中に
ゴミ箱をひっくり返しておいて、
どこ掃除してんだ!?ここにゴミがたくさん落ちてるぞ?目ついてんのかお前?」とか

あげたらきりが無いほどの、
ハラスメントのオンパレードでした。

こんな会社で働いても、
いいことなんて一つもない・・・・
と思いながらも、社長からいつも
「会社に努めたら3年は働かないと、再就職が出来なくなる」
といわれ続けたので、
ひたすら耐え抜く日々が続きました。

同僚たちは徐々に
その会社の価値観に染まっていきました。
それでも、
僕はこの状況に違和感しか感じなかったし、

こんな会社、
3年たったら絶対にやめてやる!!!
と常に心の中で叫んでいました。

でも、ちょうど2年で、
僕はその会社を退職することになりました。
3年は続きませんでした・・・

だから

「再就職活動に影響が出ちゃうなー、ちゃんと就職できるかなー」と


不安だけしか残りませんでした・・・

ニートになって:最低でも3年続けなければ・・・・は嘘だと気づく。

1回目の社会人生活を2年で終えて、
ニートになったのですが、
生きていくために
お金を稼がなければなりませんでした。

といっても、1回目の社会人生活は、
退職を前提に働いていたので、
給料のほとんどを貯金していました。

だから、2年間で200万円くらい
貯まっていたので、
すぐに生活できなくなるような
状態ではありませんでした。

しかも、もともと貧乏な家庭で育ったので、
とにかくお金を使うことに対しては
超シビアでした。

どんなに喉が渇いていても
絶対に自動販売機で飲み物を買わないし、

近所のスーパーの野菜の価格とか、
その辺の主婦よりも敏感になってました。

あと、主要な食料品の相場価格を
把握していたので、
どこのスーパーへ行っても、

その商品がお得なのか割高なのか、
瞬時に判断できました。

今思うと、これってすごいですね(笑)

だから、
1か月1万円生活とかも余裕でできました。
なんなら
8500円くらいあれば生活できました。

本当に貧乏な家庭で育った方なら
この気持ちわかるはずです。

貧乏な家庭で育った子の、
特殊能力みたいな感じですね。

社会人1回目で培った、
パワハラに負けない精神力と、
貧乏な家庭で育った
特殊の能力を合わせれば、

数年間は暮らしていけるなとも思いました。

でも、やっぱり、欲しい物とか欲しいし
お金があればいろいろなことが出来る。

だからやっぱり、
安定してお金が欲しい。
就職しよう!!

そう決意し、
再び就職活動をすることになりました。

しかし、
2度目の就職活動も
一瞬で終わりを迎えることになりました。

2度目の就職活動は、

ネットで検索して、
給料と待遇が良さそうなところを探して、
実際に見に行ってみたら、
めちゃくちゃ楽しそうに
仕事をしていたので、
「ここいいじゃん!!」
とほぼ即決。

そのまま連絡して、後日面接。

面接の最初の質問で
「前の会社を2年で辞めた理由」
を聞かれて

ありのままのことを話したら、
「そんなとこで2年間も働いたの!?」
「めちゃくちゃ屈強な精神力だよ君!
   是非うちで働いてみない?」

と言われ、
面接開始10分もしないで採用でした。

今思えば、
パワハラ以外のなにものでもない会社で
2年間勤務できたのは、
学生時代にいじめられていた経験が
あったからだと思いました。

何かを言われるより、
無視されることの方がずっと辛いです。

確かに、
コミュニケーション能力は必要だけど、


無視されていては
コミュニケーションすら取れませんからね・・・

社会人2回目:普通の就職先は天国。社畜生活に違和感。将来に恐怖を感じ絶望する。

1回目の就職先で、
ありえないハラスメントの連続だったので、
2回目の就職先はまさに
「天国」のように感じました。

新人研修を新卒組と行ったのですが、
これまで経験してきた
数々のハラスメントは、
本当に“異常”だったのだと
気付かされました。

仕事は楽だし(前のと比べると)、
上司も優しくて、
同僚も良い人ばかり
今までの人生で経験したことのない
快楽を得ているような状態でした。

そして、再就職から2年が経ち、
先輩に突然、
一人の女性を紹介されました。

その女性こそが、今の奥さんです。

めでたく結構し、
翌年には長男が誕生し、
その後次男も生まれて
家族4人で
それなりに幸せな日々を送っていました。

しかし、それは、贅沢しなければ
普通の生活が送れる程度
なだけであって

働いて稼いだお金は、
全て生活費として消えていきました。
働いても働いても、ただ生きるために、
生活するためだけにしかお金を使えない日々

そこに本当の幸せは存在するのだろうかと、
疑問を覚えるようになりました。

でも、サラリーマンである以上、
環境や仕事を自由に選べないし
どんなに不満があっても、
働かなきゃ給料をもらうことはできません。

そして、自分の人生を見つめ直した時に、
10年後の自分、20年後の自分は
果たしてどんな姿で、
いくらくらい稼いでいるのだろう
と考えました。

考えて、考えて、考えて・・・・
一つの結論にたどり着きました。

それは、今の会社の
10歳年上の先輩と、
20歳年上の先輩の姿こそが

このままこの会社で勤務し続けた場合の
自分の未来の姿
である
という結論です。

10歳年上の先輩にしても、
20歳年上の先輩にしても、
みんな生きていくことにだけにしか、
お金を使えていなくて
お金に縛られた生活をしていて
全然幸せそうに見えませんでした。

だから、
これから先10年、20年と
仕事を続けても
今のままでは
絶対に幸せなど手に入れることはできない

その姿を想像するだけで、
絶望しか感じませんでした。

何とかして現状を変えなければ・・・

現時点でも、
毎月かなりの出費がかかっているのに
これからさらにお金がかかるなんて・・・

僕が何とかして稼がなければと思い、

“会社以外からお金を稼ぐ方法“
を全力で探しました。

そして、

時間をかけて成功する
「不動産投資」に出会い、
実行しました。

時間をかけて成功する不動産投資を行い、
本業でも頑張って昇給する。

そうすることによって、
今抱えているお金の心配は、
時間の経過とともに、
小さくなっていくはずだ!!

そう考えた僕は、
本業の仕事をめちゃくちゃ頑張りました。
その結果、それなりに評価され
微々たるものですが昇給もありました。

その評価が功を奏して、
「次の異動、良い部署(給料が今よりいいところ)だよ!」
と部長からこっそり伝えられました。

そして、その部署へ行けば、
今後の昇給幅が大きいので
僕一人の稼ぎでも十分生活できるし
不動産投資と組み合わせれば
さらに生活が楽になる!!!

と、長年の苦労が報われたと
安心しきっていました。

異動の話については、
部長から直々に言われていたため、
僕はもうその部署への異動が
確定しているものだと
思っていました。

ワクワクしながら迎えた異動の内示の日、
衝撃の事実を聞かされました。

なんと、異動先は、
聞かされていた部署ではなく、
通勤が片道2時間もかかる
“僻地”の部署へのものだったのです。

さらに追い打ちをかけるがごとく、
その部署は、今よりも給料が安いうえに
労働時間が長いという最悪の場所でした。

食べていくだけでも精一杯なのに・・・
さらに給料が下がって、
拘束時間が増える・・・

考えただけでも絶望しました。
そして、僕は、
「その異動内示は受けられない」
とすぐさま全力で拒否しました。

しかし・・・
一個人の意見など相手にしてもらえず
「会社で働くことは、自分の希望とは違う道も歩まなければならない、今は我慢の時だ」
と部長から言われ、
その異動を受けるしかありませんでした。

年齢的に今回の異動が
昇給が大きくなる部署への
最後のチャンスだったのに・・・

これから先ずっと
お金にも、時間にも縛られて、
身をささげて働いても、
昇給がほとんどない・・・

しかも、病気や怪我で働けなくなったら
収入は途絶えてしまう・・・・

この先ずっと
お金にも時間にも縛られ続ける人生・・・

そんな人生は
絶対に嫌だ!!
と強く強く思いました。

ネットビジネスとの出会い:常識を破壊。正しい師を持ち。投資を惜しまず即行動

この状況をなんとか変えなければと
今すぐにでも変えなければと
焦っていました。

そして、

ネットで色々調べまくると、
世の中にはとんでもない人たちが
存在していたことを知りました。

大学時代に起業して億を安定して稼ぐ起業家

月500万円稼いでいる大学生

窓際族なのに実は副業で月収1000万円

1か月全く働かなくても日給10万円

Twitterだけで億を稼いでいる大学生

これらは全てパソコン1台で達成している。

僕の常識ではありえない生活だったので、
「嘘だ」「ありえない」

と思いました。

でも、
ブログや電子書籍を読むにつれ
これらが全て現実のものだと知りました。

そして、
成功している起業家から
次の1つの教えを得ました。

人生のできるだけ早い段階でネット上に資産を作りなさい

自分の分身となって、
24時間365日働いてくれる
自分だけの“資産”を作らなければ、
いつまで経っても
労働から解放されることはない。

だから、気付いたときから行動して、
行動して、行動しまくるしかない!!

ということを。

さらに、

・ビジネスに必要なのはセンスや才能ではなく、知識

・ネットビジネスを怪しいと思うのは、知らないだけ、ただの知識不足

・正しい知識を得て実践すれば、誰にでもできる

というようなことが書かれていました。

事実僕も、この事実を知った直後から
ひたすら行動し続けました。

ビジネスの基礎を学び、
ビジネスに必要な知識を学び
ビジネスに必要な経験を作り

全力で資産を構築しました。

そして、ネット上に資産を築くと、
本当に収入が入るようになりました。

行うのは集客のみ・・・

あとはこれを完全に自動化させれば、
お金にも時間にも縛られることなく
生きていけます。

だから、

「僕がいままで必死になって働いてきたのって、何だったんだろう?」

という気持ちにもなりました。

ネット上に資産を作れば、

・自由な時間が増える上に、お金も増える。

・子供の成長を一番近くで見守ることができる

・自分の人生でできなかったことが出来るようになる。

・お金が増えるだけで、心に余裕が出来るので、優しくなれる。

・労働で拘束される時間が無くなるから、身体的・精神的負担が無くなる。

これら全てが“当たり前”になります。

今だからこそ、僕が起業家から学んだ

“人生のできるだけ早い段階でネット上に資産を作りなさい”

という言葉の意味がよく分かります。

自分の分身となって、
24時間365日働いてくれる
自分だけの“資産”を作らなければ、
いつまで経っても
労働から解放されることはありません。

ネットビジネスは、
先に実行した先輩が、
正しい知識を教えてくれている

その知識に耳を傾け、
信じて行動するか
嘘だと決めつけ行動しないか

その選択一つで
未来の人生が激変します。

ここから僕の人生の逆転劇が始まります。

◆◆◆◆コウの物語~続く~◆◆◆◆

読んでいただきありがとうございます

いかがでしたでしょうか?

ここまで読んでいただいた方は

人生を本気で変えたいと

思っているのではないのでしょうか。

何の悩みもなく
将来に不安を感じていないのであれば

ここまで読むなんてことはあり得ません。

僕の人生や、考え方に共感して頂けた方
そんな方のお役に立てるのかと思います。

僕は、ビジネスの知識も

経験も、人脈も、全くなし

完全にゼロからのスタートでした。

だけど、

『正しい師の下で、正しい方法で行えば成功できる』
という考え方に従って、
成功している起業家から

学びながら実際に行動してきたので

人生が変わりました。

ビジネスは義務教育で教わらないからこそ
学ぼうと思った時が
それぞれのスタート地点となります。

今現在成功している起業家も、
成長過程でこれから成功する起業家も

初めはみんなゼロからのスタートでした。

だからこそ、
最初から正しい知識を身に着ければ
ストレートで成功できるし、
誰でもできるようになれるんです。

自由を手に入れて、
人生を楽しむ。

人が人として生まれてきた奇跡を
生きるための労働に費やして過ごすのか、

お金にも時間にも縛られずに
自由に過ごすのか

あなたはどちらの人生に魅力を感じますか?

具体的なコンテンツビジネスの稼ぐ力
どのような行動をするべきか
何をしないべきか、については

公式LINE
詳しく話しています。

興味を持たれた方は
ぜひ登録してみてください。

決して怪しい内容のものではないので
そこは安心して下さい。

ぜひ僕の公式LINEで
情報収集をしていただいて
自分の人生を豊かにするための
成長につなげていただければと思います。

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